2005年 06月 19日
朝テレビをつけたら、例の兄弟げんかの話題をやっており、なんだアホらし、他人の家族の話なんかにぜんぜん興味ないもんね、と思ってチャンネルをひねると(...)、田原さんの番組に宮澤元総理が出演されていて...。 見た方はご存じでしょうか....。 田原さんが、「結局のところ、靖国へ首相は行ったほうがいいのか悪いのか、どうですか、宮澤さん?」 と問うたんですが、それに対して、 「...気がついてみたら忘れていた、ということもあるんじゃないかと....」 「...ああ...忘れてたと....」 「...今年はそういえば、行くのを忘れていたなあということもある....」 忘れていた......う〜ん、タヌキ!! これぞハイパーじいさん、もしかしてこの方、フリー教の大幹部だったのかしらん...と思いかけて、いや待てよ、と違和感がコリコリ....。 たしかにこの宮澤総理の解決法、認知症老人を修行の最終到達点としてあこがれてたりあこがれてなかったりするフリー教の理想に合致したりしなかったりしてるけど、「それってただのボケ老人じゃん」という恐れも大いにあり....。 まあ、宮澤総理といえば英語バリバリ、ナイフとフォークで食べられるようなハイカラな解決を見いだしてくれると、誰もが思うところにかましたギャグ...いや、もしかして西洋風のヒューマーというやつかしらんと思ってもみたけど...場内誰も笑わず....。 ...たぶんその答えが、あまりにも「ポンニチタヌキ老人の典型」にはまりすぎてしまい、誰も笑いの余地を見つけられなかったというのが、ことの真相でしょうか....。 結局、宮澤さんがどういうつもりだったのか、ようわからんのですが、いずれにせよ、このポンニチの古式ゆかしき「タヌキ的解決」は、ほんとにやったらアホそのもの....。 自分でいくらボケ老人を気取っていても、相手はボケてると思ってはくれない...。 「忘れたふりして、ホントのとこ、あなた忘れてないアルネ!あなたやっぱりウソつきアルヨ!!」 (...すいません、ゼンジー北京語、または小沢昭一広東語でした...) ....宮澤式でボケていても、事態はまったくかわらない。どころか、「バカにしとんのか!」とつっこまれて、かえってミゾを深く刻んでしまうのでは...。 ...そこで、なんかいろんな方が中日友好、または決裂&戦争のために発言しておられる中ではありますが、わしも微力ながら、中国は金庸先生のカンフー小説をほぼ全巻読破という極私的功績に免じて、靖国問題解決策を少々披露させていただきたく...。 ...そも、これは相手とのおつきあいの問題。 自分の思い・都合・プライド等々さまざまあるにはあるんでしょうが、それだけを押し通したらおつきあいなんかできるわけがない。 缶コーヒーを飲みながら、かわいいあの娘の言うがまま、力強くなったり繊細になったりあり得なかったりしてる兄弟の方々もいるようですが、あれほど「迎合」する必要はないにせよ、相手の考えを知り、相手が「ああ」と感じるツボをおさえなければ、おつきあいへの道は決して開けません。 かの国に発達した武術、カンフーでは、このツボを「秘孔(ひこう)」といいます。 つまりは人体各所にかくされた穴。そこを正確につけば、効果は全身におよび、動けなくなる、踊り出す、笑い出すなど、カラダはもちろん感情まで、相手は思いのままになるのです。 まあ、思いのままにする必要は、あったりなかったりするんですが、おつきあいの前提として、相手のツボ(...おそらくはこれが相手の魅力でもあると思うんですが)くらいわかっていたほうがいい...。 でそこで、カンフー小説から知れる、かの国中国の秘孔はといいますと、まずは「面子」ということになるでしょう。 そして「兄弟」です。 武侠の世界(カンフー武術で世をわたる方々の世界)では、それを非常に重んじておりまして、どんなに反目しあってる敵であっても、まず「面子」をたがいに尊重するのが礼儀だし、作法なんです。 たとえば往来で敵と出くわしたとする。 そこでいきなり「やあやあ、ここで会ったが百年目!」と刀を抜くのは、短気で真面目なポンニチ人の振る舞いですが、かの国のやり方は違う。 まずはニコニコ笑って...、 「おお、焼売山のアニキではございませんか。ご壮健でなにより...」 「おやおや、誰かと思えば餃子谷の先生、また腕をあげたとお噂はかねがね...」 と、そ知らぬ顔してやるのが本格なんです。 でも、これはもちろん表向き。じつは、虎視眈々とスキをうかがってるわけですな。 で、いざ戦端をひらく、というというときにどうするかというと、相手の面子をつぶして侮辱すればいい。 「...いやいや、焼売山のアニキにはかないません。なんでも、近ごろは酢醤油を飲んでカラダを柔らかくされているとか。それに、頭にグリンピースをのっけて、四六時中落ちないように修行してるそうじゃありませんか...」 「...な、なんだってえ!プイッ(と地面にツバを吐く)」 ...で、あとは両者ともに、ワイヤーで吊られて宙高く舞いあがるわけですな....。 .....こう考えてみますと、あの首相の振る舞いは最低最悪。 「おれはおれだ、おれを通す」といって、相手の言うことを「聞き入れるフリ」もない。 ご本人は、「自分の気持ちに正直でなにが悪い」とでも思っているんでしょうが、これじゃあ礼儀も作法もあったもんじゃない。 それに、「正直であること」は、武侠の世界では危険なことなんです。 どんなときにも自分の気持ちを隠すこと、そして、相手の隠された気持ちを察知してウラをかくことが、戦いに勝つためにも、世の中を渡ってくためにも必要とされる。 「真っ正直だ」というのは、修行の足りない未熟者だということにすぎません。 だから、若くて力のある者より、経験をつんで老獪さ(ずるさ)を身につけたおじいさんのほうが勝つ、なんてことがよく起こる。 おそらく、かの国の方々にとっては、首相は「敵」なんてもの以前。 未熟者とか野蛮人とか、もしかしたら人でもない、禽獣珍獣の類としか思いようがないんじゃないでしょうか....。 大事なのは、たとえウソでも相手の面子を尊重し、顔を立てるってこと。 これ見え見えのウソでもかまわない。フリでいいんです。 本心なんてものがあったとして、最初からその本心でつきあってくれなんて誰も期待してはいない。 まずは礼。礼を学ばざれば、以って立つことなし...と、首相も引用された孔子様も言っておられるようで...。 そして、礼だなんだかんだの段階がすぎて、いったん意気投合したら兄弟のちぎりを結ぶ。 これは「生きるときはともに生きる、死ぬときはともに死ぬ」という命をかけた約束事で、これを裏切ったら、死あるのみ....。 まあ、これは斬ったはったの武侠の世界の話ですけど、命までかけなくても兄弟のような関係というのが大事にされてるようです。 親に従うこと、孝行することが中国ではすごく大切なことだそうですが、その次くらいの大事さなんじゃないでしょうかね。 ....そこで、これまでの歴史経緯を考えてみると、中国の方のイメージのなかでは、ポンニチ国というのは弟分にあたってるんじゃないでしょうか。 実際、大昔からポンニチの天下をとったものは、中国に臣下の礼をとっている。 政治的には「臣下」なんでしょうが、自分より下のやつというのは、心情的にはたぶん「弟」。 その弟が、近代になって日清戦争以降、兄貴に対してやってきたことって....そう考えれば、中国の方々が感じてるショックの、恨みの大きさ、そして複雑さがわかる。 これちょうど、若花田と貴乃花の関係みたいな....。 もちろん、近代的な考え方をすれば兄弟もなにもない。ひとつの国はあくまで独立したひとつの国なわけでしょう。 首相だって、「独立国家だ、自分の勝手にしてなにが悪い!」とやっているんでしょうが、そんな西洋的なモダーンな考えでゴタゴタしてきたのは、たかだかこの100年ちょっとにすぎない。 それ以前には、弟分としてやってきた歴史がずうっと....。 その意味で、西洋人に意見を聞いて、「ほれみろ、紅毛碧眼の方々も中国が悪いと言っている」なんて威張る方もおられますが、そういう部外者の考えを頼りにすればするほど、兄弟仲を引き裂いていくことになる(歴史的にも、西洋の国を仲介にして、ことをややこしくしてきた経緯があるようです)。 ...まあ、兄弟関係というのは、いったんこじれると難しいという見本が、いまこれでもかこれでもかと報道されてますけど、たしかに理だの利だので始末がつくわけじゃなく、情がからんでるだけにすごく難しい....。 そこで、わしが考える解決法は、やはりウソでも演技でもいいから、「弟」として振る舞ってみるってことじゃないかなあと...。 いままでの経緯とか、オレのほうが進んでるってなプライドとか、言われのない侮辱を受けたとか、法的にどうだとか、契約がどうだとか、そういうゴタゴタはとりあえず置いといて、あらためて「弟」としての立場で、とりあえずでも「兄」として接してみればいいんですよ。 ようするに、いつまでも「花田勝氏」とか言って我をはってないで、一度でもいいから「アニキ!」と呼びかけてみたらどうかと....。 あれ?...やっぱり興味あったのかしらん...? by M PS...で、靖国には行くのかって...? もちろん、アニキにゆずって行かないんです。 なんとなく、忘れて行かなかったなんてとんでもない。 アニキのために、兄弟仁義を守って行かないということをはっきり示す。 ま、ポンニチの兇状持ちがすこし暴れるかもしれませんが...、 「騒ぐんじゃねえ!てめえたちゃあ兄弟分の杯が命より重いってことを知らねえのか!....それに、いまアニキの顔を立てとくとどうなるか、ちーとばかしソロバンをはじいてみねえな...」 と押さえ込むくらいのことはしなけりゃならない。 こうすれば、中国の方々の感情を解きほぐすだけじゃなく、さすが大丈夫(ますらお)であると、その意気に憾じてすらもらえるんじゃないでしょうか(たとえソロバン勘定が見え透いてたとしてもかまわない。中国の方々は当然のこととして気にしないと思います...)。 ...んな任侠道みたいなこと、いまの中国人が感じるかって...? だいじょうぶ、金庸先生のカンフー小説は、中国語圏最大...てことはおそらく世界最大級のベストセラーなんですから...。 ※注...武侠小説は、わが国で言う任侠ものとは違います。武侠に生きる方々のなかには、荒くれ者だけでなく、文人もいるし、女性もいるし、貴族や皇帝もそうだったりする。物語もアクションだけでなく、恋あり笑いあり涙あり、歴史も政治も人生も...総合エンターテインメント小説というかなんというか....ともかく、読まない方がいいです...とりこになってしまうから...。 #
by iraq777
| 2005-06-19 22:09
2005年 06月 18日
スピさんの映画に登場する「ムクな子ども」を思いだしていたら、イランの子どもを思いだしてしまいました。 先にもご案内のとおり、イラクのお隣の国は「子ども映画」の大国なんです。 まあ、どれでもいい。かの国の映画に登場するお子たちの姿を思い浮かべてみると....もう、涙...。 あのお子たちは、小さいながら「どっちかいいか」考えて行動する「倫理の人」なんです。 スピさんの思い描く子どものように、大人がつくった現実・状況にすっぽりはまって、不幸になったり幸福になったりしてるわけじゃない。 大人に言われるまえに、自分で考えて選んで...つまりは自由に行動しているんですな。 ...で、フリー教教徒のみなさんならご存じのとおり、この世に生きて、「どっちか」に決めれば、往々にして「悪いこと」をするはめにもなる...。 わかっていながら、悪いことをする...。 ...小さいながら、ダーティー・ハリーだったりもするわけですよ!! ...わしは、こういうお子たちの活躍ぶりをみるたびに、イスラームでは、神様がいいこと悪いことをはっきり決めてるはずなのに、どうしてこうも人情の機微に通じてるというか、人生の真実をついているというか、わが国ではほとんど死語になってしまった「もののわかった」映画ができるんじゃろう、と不思議でならないです。 まあ、神様が善悪を決めているんだから、どんな子どもだって放っておいても、自由に行動していても、ことの善悪に触れて気づいていくはず.....てなことなのかな? そんな子どもの姿に、神様の意志のあらわれを見る、とか、そういうことなのか...? ...少なくとも、イスラームの方々は、神様が決めたことを、まるで独裁者が勝手に決めた法律かなにかのように、いつも気にしてオドオド従って生きてるだけじゃないんだな、というのがわかる。 自由勝手に生きていていい、むしろ自由勝手に生きているからこそ、神様の決めたことに触れ、そのなかで生きることになるのじゃ....というような考え方があるような気が...。 ...てことは、あの二代目ほかアメリカの一部の方々が思い描いてるような「すべてが神の教えに従った正しい世界」なんてものを、イスラームの方々は「実現できる」と夢見てもいないし、めざそうとも考えてはいないってことになる...。 神様の意に沿わない者がいる...?あたりまえじゃんか、ニンゲンなんだもの...。 ...それに、「神の国」を自分たちでつくったら、自分たちが神様だということになってしまう。それはありえないし、あってはならない。 神の決めたことに触れながら、自由に生きることができる。悪を犯す自由さえある。でも、自分が神になる(救世主になる、預言者になる)自由だけは、絶対にない...。 ...なんだか神学のようなことになって、わしの手にはもう大余り...。じゃあ原理主義といわれる方々ってのはどうなんじゃ、イランという国がそもそも...という大疑問もあるし...。 ただ、少なくともスピさんの映画に出てくるアメリカの子どもより、イラン映画に出てくる子どもの方が、はるかに「自由」に見えることはまちがいないです。 で、感動も感動そのもの、感動を超えたりなんかしませんからご心配なく...。 イラン映画、ご覧になってない方はぜひ...。 by M PS...でも、そうは言っても、スピさんの映画に出てくる子どもの「無力感」に共感する方々もいるかもしれません。もうこれから先、なにがおこっても決して心を動かすことはない、みたいな「太陽の帝国」の子ども、「AI」の子どもロボット...。 たぶん、スピルバーグさんは、自分のつくった映画に感動することはないんだろう、逆に言うなら、自分が感動する映画だけはどうしてもつくることができないんじゃないか、という気もして...。 そしてこの無力感を、あの二代目も共有しているんじゃないか、という憶測もちらりと...。 #
by iraq777
| 2005-06-18 15:50
2005年 06月 17日
...どうも、話が「倫理・道徳」というようような方向に....。 「...わが身のためをはかって、他人をけ落とすのは良いのか悪いのか?...人を殺したら良いのか悪いのか?...くもの糸は切れるのか切れないのか?.....ようするに、わしらはなにをしたら良いのか、なにをしたら悪いのか.....?」 ...なんか中学生の悩み...のようにも思えますが、この倫理というやつ、触れただけで人類の全宗教、全哲学、全思想というようなものがのしかかってくるような気も...わああ。 ...しかしこの、「どっちがいいのか?」というやつ、どうやら世の中の誰も、逃れることができないらしい。 一応フリー教教徒として、飲みかつ吸いながら精進の日々をすごしているわしとしても...、 「どっちでもいいとか言っても、どっちかに決めなきゃいけないってこともあるしなあ...。 それよりなにより、誰でも生きてるかぎり、すでにどっちかに決めている....あっ!すでに酒を飲み、タバコを吸っている!!」 ...などと悟ったりすることもあったりなかったりするわけで....。 ...なんだか、あの「無責任シリーズ」の最後の方の作品で、あろうことか「...やっぱり責任がいちばん!」とかいう歌を、植木等先生ほかクレージーキャッツのみなさんが行進しながら歌っていた....という悲しい記憶もよみがえり...(ほんとなんですよ、これ...)。 ....生まれてはみたけれど.....。 まあともかく、浮き世に生きる身としては、いやでもどっちがいいかたえず決めるという、面倒なことをしてかなきゃならない....、逆にそれがなくっちゃあ話にならない意味がないという事々もあるわけで...。 ...そこでまた映画の話なんですが、映画なんてものも、「どっちかに決める」...つまりは「倫理・道徳」というものが入ってないヤツは、どうにも締まらないし、感銘も薄い....。 たぶん、人間が生きて動いている様をうつす映画というものには、「倫理・道徳」が必需品なんじゃないかとも....。 そこで思い出すのがスピルバーグさんの映画。 あの方の映画には、「倫理・道徳」があるようでいて、じつはないんじゃないかと思うんです。 まあ、いろいろ作っておられて、全部見たわけじゃないんで例外もあるんでしょうが、すごく大ヒットしたような映画には、思いのほか、それがない。 ストーリーで言えば、「どっちかに決める」というのっぴきならない状況が話の中心になってこない。 登場人物でいえば、主人公が、何の責任もないイノセント..ムクな立場に置かれてることが多い。 まあ、よく少年が主人公になるやつをつくっておられますが、それが典型的。 「こうして少年は、かわいそうなことになりました、でもしあわせにもなりました」とかなんとかいう話になるんだけれど、少年はただまわりの事情・状況に巻き込まれているだけで、なにも本人がそうしたわけじゃない。 なもんだから、こちらとしては、その子がかわいそうになろうがシアワセになろうが、「まあ、そういうこともあろうか...」と思うだけで、それ以上どうにも思いようがない....。 ...こうして、「わたしなんだか感動したみたいなんだけど、どう?感動した?」「....う〜ん、すごく感動したような気がする....」という不思議な感触の「超感動(感動を超える感動?)大作」が生まれてくる....。 でまあ、こんど「宇宙戦争」というものが公開されるそうですが、それもそうかなと....。 「9.11後の状況を描いた」「危機に直面したとき、家族をどう守るかを描いた」などなどと喧伝されておりますが、きっとムクな主人公(こんどはお嬢ちゃんみたいですね)が、自分にはなんの責任もない出来事にわけもわからず巻き込まれて、助かるんだか助からないんだかするんだろうなあと....。 お子ちゃまが主人公で(トム・おやじさん・クルーズは添え物、たぶん途中で死ぬんじゃないかな?それとも市場調査の結果生かしとくことに...)、しかも相手が宇宙人じゃあ責任の持ちようがないし持ってきようもない。ようするに、地震とおんなじ....。 でも、ほんとうの「9.11」そして「9.11後の状況」というのは、そんなムクな世界でおこった、そしておこってるわけじゃない。 ...それは、ある時だれかが「良い悪い」を判断して「どっちかに決めた」こと、それの積み重ねでおこっているわけで....。 中学生のように悩むことが、やはり必要なような気が.....。 by M PS...スピさんの対極にあるのが、もちろんイーさん。そういえば、イーさんは、若いときからムクのふりをすることなんかなかった....きわめて「倫理の人」だったなあと....。 #
by iraq777
| 2005-06-17 15:21
2005年 06月 14日
この字を見ただけで、萌えるってな状態になるお若い方も....。 いやいや、わしはもうそんなに...。 それに残念ながら、この字で思い浮かべてるのは、砂漠の中のテントと、そこでヘルメットをかぶって体中におもりをつけたような恰好で砂まみれになってる自衛隊員の方々の姿...。 あれ?みなさんも忘れてました? わしも忘れかけてたんですが、「国防」などということに思いをめぐらしてるうちに、ふと思いだしたんです。 ...いや、なにも自衛隊の方々そのものを「恥である」などと言ってるんじゃありません。 隊員の方々にはほとんど関係がない。 恥ずかしいのは、わしらですよ。 わしらポンニチ国民が、イラクの国にみなさんを送って、さして役にも立たない任務とやらをやってもらってること自体が、あらためて恥ずかしいことだなあ、と思ったんです。 どう恥ずかしいのか? ...その恥ずかしさを、「他国にひきかえ、血を流していないから」...などど思いこんでいる人がある。 で、ともに血を流せるように法律を変えようなんて人もある。 ....ようするにあからさまに言えば、自衛隊員の方の何人か何十人かはケガをしたり、死んでもらえば恥はすすがれると思ってるんですな....。 でも、考えてみれば、そんなことをしても恥ずかしさはなくならない。 そりゃ、みんなと同じことをやってれば、恥も薄れる、忘れる..というのはあるでしょうが...。 なにがそんなに恥ずかしいのか? ...それは何よりも、あの派遣という振る舞いが、イラクの方々のためのようなフリをして、じつは自分のためにやってるってこと....これですよ。 それをやや死語になりつつある言葉でいえば、「おためごかし」という...。 ...自衛隊のみなさんの活動を「わが国の安全・安心のために体をはっている」などと言って、ほめたたえる人がある。決して「イラクのために体をはってる」わけじゃないんですな....。 なぜ、イラクの方々を助けるのに、それがポンニチの安全・安心に役立つのか? ...なことは、わしが言うまでもない。 「ひきかえに」米国が守ってくれるからですね。 派兵する際の首相の「苦渋の決断」とかいうのも、なにも自衛隊のみなさんを危険にさらすことと、イラクの方々の今後の幸福をはかりにかけて、「やあ、危ないなあ、でも助けなきゃいかんしなあ...」なんて苦しんでたわけじゃない。 米国につきしたがった方がいいのか、それとも我を貫いた方がいいのか....、結局首相の「我」の問題だったとも思えますが、まあ表向きには「わが国の安全・安心」のために、どっちがいいのか、という苦しみだったわけです。 その苦しみのなかには、自衛隊員の方の身を思う気持ちはあったかもしれないけど、イラクの方々の幸福を願う心なんてものは、まるでなかった...と思うんですが、そうでしょ、首相? この「おためごかし」を、イラクの方々が気づかないはずはない。 それで殺された方もいるけれど、一方でなんと、「よく来てくれた」と歓迎してくれる方々もいた...。 わしらの「本心」を知っていながら知らんふり....「さすが、アラビアンナイトの国の方々、ニンゲンの表裏をわかってらっしゃる...」と、顔を赤らめて感謝するしかない...。 ...この恥ずかしさ、サマワからのニュースがあるたびに、どうも薄々感じていて、でもそれがどこから来るのかはっきりとは意識してなかったんですが、じつに遅ればせながらわかった気が....。 ...でも、これを恥ずかしいと考えない方もいるかもしらん。 「なんで自分の身を守ることが悪いんじゃ!?他人のことなんか知ったこっちゃないってのが、どうして恥ずかしいことなんじゃ!?ニンゲンってそういうもんだろ!!」 ...まあ、ニンゲンってのはそういうもんかもしれん。 だからといって....「走れメロス」「杜子春」.............。 by M #
by iraq777
| 2005-06-14 02:47
2005年 06月 12日
まあ、わざわざ日本語訳をする必要もありません。 1984年と言うから、いまから20年も前につくられたアーカイブ映画、『アトミック・カフェ』というのを見てしまいまして(DVD・レンタル屋)。 アーカイブ映画といいますのは、これ、昔撮影された映像・音声だけを集めてつくられており、新たに撮影もしてなければ、解説・ナレーションさえもついてないという珍しい映画だからなんでして。 テーマはもちろん「原爆・水爆」、内容はムーア兄いのやってたテレビ番組のタイトルそのものです.....「ひどい真実」または、いまどきの言葉でいえば「脱力の真実」とでもいうんでしょうか..。 自分のとこで原爆を開発・使用しておきながら、のちになってその脅威にアタフタし、それなのにまだ懲りずに核実験にまい進するアメリカ国の姿が、ニュース映画だの軍の訓練用映画だの、おそろしい数の映像を集めて描かれております。 ...多くは白黒の映像なんで、「ああ、昔のひとは呑気で考えが狭くってアホウだったんだなあ...」とつい思ってしまうんですが、考えてみればじつは、いまだって事情はそう変わっていない。 それに、人々の思考・人情だってどこまで違うのか...。 ...たとえば、いま「国防」という本を出しておられる、あの前防衛庁長官Iさんあたりがこれを見たら、「さすが米国、やることが徹底している。わが国もここまでやらねば本当の国防をしたとは言えないであろう...」とかなんとか、言いだしそうな気が....(こういう観客がいたら制作者の方々も口あんぐりでしょうな。解説・字幕をたっぷり入れて、『アトミック・カフェ・フォー・フール』ってのをつくっときゃよかったな..なんて...)。 でも、Iさんをバカにしてはいられません。 じっさいの話、半島の方々が核兵器を持っている、というのが明々白々あきらかになっているんだから、ポンニチ国民は仕事だの学校だのフツーに暮らしてる場合じゃない。 いますぐ1日か2日は休んで、核ミサイルが飛んできたときの緊急避難訓練をやっといたほうがいいんじゃないでしょうか? ちなみに、このカフェで教えてくれる緊急避難の方法とは、ピカッとひかったら何もかも放り出して建物かなにか物影に隠れるということみたいです。 そうすると、この映画にも出てくる実際の被爆地、ヒロシマの状況から考えて、自分自身が跡形もなく消えてなくなっても、その影がくっきりと建物の壁にうつしだされることになる。 それがより鮮明に写し出されれば、誰がそこで消えてなくなったのか、つきとめられる可能性も大いに高まる....てことなんじゃないでしょうかね....(それとも、5万年後に「ニンゲンの遺跡」としてサルに発見されるとか....だからどうした、と言われると困るんですが...)。 ...そのほか、この映画には「核攻撃」に対して、文字どおり懸命に準備する、老若男女さまざまな方々が登場します。 ...なかでも「これは...」と思ったのは、自分でつくったらしい核シェルターから顔を出したおじいさんへのインタビュー。 「シェルターから出てきたとき、ロサンゼルスに誰も人がいなかったらどうします?」 「誰もいないぶんだけ、わしらが使える水や食料が残ってるってことじゃよ....」 じいさん、そこまでして、それから何年生きられると思ってんの?....という高齢の方....。 思わず「我執・妄執」ってな、辛気くさい言葉を思い浮かべてしまいましたぜ。 自分だの家族だのを守るって....それは「他のやつらはどうでもいい」ってのと表裏一体。 「国防」というのも、人情の動きからすれば、そのまっすぐ延長にあることはまちがいない。 わしはますます、「国防」はその本質からして「悪」であると思いましたです。 だってなにしろ、北朝鮮国が核でおどしをかけているのも、アメリカ国が国際的な話し合いの場でどうのこうのとごまかして、いまだに1万何千発、地球をぐるり何十回だか破壊するだけの核兵器を持ってシレっとしてるのも、なにもかもが「国防」のため....ようするに、てめえひとりが助かって、いいめを見ようという魂胆のなれの果て、なんですから....。 by M #
by iraq777
| 2005-06-12 14:01
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イラクやイラクで起こっている出来事について「言いたいことを言ってもらう」ための掲示板です。ID:iraq777、パスワード:hitokotoでログインすれば誰でも投稿できます。 by iraq777 カテゴリ
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